映画「沈黙 -サイレンス-」観ました

映画「沈黙 -サイレンス-」を観てきました。遠藤周作の小説が原作で江戸時代初期、キリスト教が弾圧されていた長崎が舞台の映画。マーティン・スコセッシ監督が28年前にこの小説に出会い、感銘を受けて映画化を熱望したとのこと。ずっと温め続けていた作品の映画化とあって、監督にとってもかけがえのない作品となったようだ。

キャストは主人公の宣教師ロドリゴ役にスパイダーマンなどでおなじみのアンドリュー・ガーフィールド、宣教師ガルペ役にはスターウォーズのカイロ・レンを演じたアダム・ドライバーを起用。彼らが日本へ渡航するのにマカオから同行した日本人のキチジロー役を窪塚洋介が演じる。その他、浅野忠信やイッセー尾形といったベテラン陣のほか、俳優としても素晴らしい塚本晋也監督や、モデルの小松菜奈らも出演している。

マーティン・スコセッシ監督は、この作品を自分の解釈で製作することに不安を感じていたとのことだが、個人的には原作の持つメッセージ性を忠実に描いてくれたのではないかと思った。本当に素晴らしい作品だった。宗教や信仰心がテーマだが、宗教の真理というより、人が信じることは何なのか、人間の業についてなど、人間そのものを深く考えさせられる内容だった。

物語をよりシリアスに感じさせたのは、この作品にはBGMが全くないというのも一つの理由だと思う。波の音、虫の声、お経や、賛美歌といったものだけが映画のシーンで効果的に使われている。時には叙情的な描写に素晴らしい音楽も必要だが、このように徹底した沈黙(サイレンス)な作品はあまり見たことがない。

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遠藤周作の「沈黙」を読む

遠藤周作の「沈黙」を読んだ。

あらすじ

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舞台は基督教禁教令下の江戸時代。島原の乱の後、一層厳しく弾圧された基督教信者たち。その中で、なんとか信仰の根を絶やさず、日本に残り粘り強く布教活動を続けてきたイエスズ会のフェレイラ教父が突然棄教してしまう。司祭の弟子であるロドリゴとガルペ司祭はその真実を確かめるべく、基督教徒にとって危険極まりない日本へ何とか潜入する。そこで見たのは重い租税により厳しい生活を強いられる隠れ切支丹たちの姿。彼らは役人に捕らえられ無慈悲にも処刑されていくが、司祭は何も出来ずに彼らの為に祈るしか出来なかった。

切支丹狩りを逃れて彷徨うロドリゴであったが、キリシタンのキチジローの裏切りにより、捕らえられてしまう。そして、移送された長崎で、何人もの宣教師たちを棄教させてきた幕府の大目付である井上筑後守と対面する。井上は元々は熱心な切支丹であったが、現在は宣教師たちを非情な拷問にかけて棄教させてきた。彼はロドリゴに基督教がなぜ日本では根付かないのか淡々と説くのであった。

同士であるガルペ司祭も殉教し、次々と処刑されていく切支丹たち。祈りを続けてもいつまでも神の声は聞こえてこない。そんな沈黙に、ふと司祭は神はいないのではないか、自分たちの活動が全くの無意味だったのではないかと思いがよぎる。それでも自らの使命を全うすべく、棄教せずにいるのだが、ついに、かつての師であるフェレイラが目の前に現れる。そこでフェレイラの発した言葉にロドリゴは愕然とする。

かくしてロドリゴは棄教するのであった。

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感想

宗教の抱える問題、信仰心や人間の根底にある弱さ、西洋と東洋の思想の違いなどを描いている。人々が本当に困窮した時に神がなぜ何も語らないのか。神の沈黙という宗教のタブーについても大胆に描かれていて、無宗教の私にとっても色々と考えさせられる内容であった。主人公のロドリゴが帰依するものは最終的には宗教ではなく、信仰心だっのだろうか。私の中では宗教と信仰心とは別のものだと認識している。ロドリゴが呼ぶ「あの人」とは自分自身だったのかもしれないなと思った。痛みを知ること、全てを受け入れた時こそ何かが見えてくるのだろう。

2017年1月にマーティン・スコセッシ監督による映画が上映されるらしいので、見に行きたいと思う。

 

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深い河 – 遠藤周作

本屋に立ち寄ったとき、ふと手にとった本ですが深く感動しました。

インドツアーで集う人々。それぞれに他人が想像することも出来ない過去や苦悩があり、その答えを求めるため、過去と決別をするためにガンジス河へ向かうという話。妻に先立たれた男が転生を信じたり、戦争で死生をさまよった男が亡き戦友の法要のためにツアーに参加するなど、様々なエピソードが描かれますが、「真実の愛」という言葉を信じることができず苦悩する美智子という女性と、キリスト教徒でありながら基教的な考え方に迎合できず、教会を追われながらも、ただ普遍的な愛を信じて生きていく、大津という男の生き様が対象的かつ印象的でした。そして、読了後に人間の不条理というものを感じずにはいられません。しかし、それと同時に人間の愛について深く考えさせられます。

自分は特定の宗教を崇拝していません。しかし、因果というか、業というものについて最近深く考えるようになりました。人間の行いが全て結果となって現れる。人間は原因をコントロールすることで結果をコントロールする。因果応報というものでしょうか。それは宗教として当てはめれば、仏教的な考え方なのかもしれませんが、業(カルマ)について深く考えることは単なる信仰心ではなく、一人の人間として大事なことなのかなと思うのです。なぜそのようなことを考えるようになったかは良くわかりませんが、震災後の価値観の変化なのかもしれませんし、両親と先祖や死生観について話をすることが増えたからかもしれません。いずれにしても、内省はまだまだ不肖な自分ですが一度きりの人生、大切に生きて行きたいと思いました。

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